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横顔 24

「洋子・・・」 敬一郎は洋子を抱きとめていた。

いっそう強く降り出した雨音が車内に響きわたる。敬一郎の胸に顔をうずめながら、洋子が何かを言ったようだが、彼はそれを聞き取ることが出来なかった。また、聞き返すこともしなかった。洋子は、そのままじっと動かずにいた。敬一郎は洋子の髪を優しく撫でながら、自動車のフロントガラスを流れ落ちる雨を眺めていた。

最後にここへ二人で来たことを思い出していた。季節はちょうど同じように、木々が色づいていた頃であった。二人を包む空気は、今と同じように穏やかなものであった。
        水鏡

敬一郎が洋子以外の女性との結婚を決めたのは、洋子の父親からの圧力に屈したわけではなかった。若い二人の情熱は、そのような外圧に負けるほど弱くはなく、むしろ障害があればあるほど彼の彼女への想いは深まっていた。問題は、そこにあったのではなかった。敬一郎自身の問題であった。

もし、彼が洋子と一緒になることになれば、彼女の父親の仕事を継ぐことになるかも知れない。しかしそれは、敬一郎にとっては重荷でしかなかった。実際、洋子は自分と結婚すれば、そのことは念頭において置くようにと話していた。いわゆる帝王学なるものの本を無理やりに読ませてもいた。小さな酒屋の息子に生まれ、御用聞きや配達の手伝いをしてはいたが、会社を経営するということと、店を営むということの違いは理解できていた。

また、洋子の取り巻きには優秀な人材も多く、そのような人間たちと渡り合っていける自信もなかった。現に、社員の中には、敬一郎と洋子の付き合いに反対するものも居たために、二人を引き裂こうとする企てもあったようだ。

別れを切り出した、いや、切り出さざるを得なかったのは敬一郎のほうからであった。洋子は、敬一郎が結婚してからも、彼の傍を離れることが出来なかった。洋子にとって敬一郎の結婚は、到底、承服できるものではなかった。別れる理由は「他にすきな女が出来たから」というあまりにも理不尽なものであり、それをまともに受け入れるほど洋子に思慮がないわけではなかった。自分に対する想いの有るや無しやくらいは、長年共に過ごせば感じ取れるものである。

理由はともかく、洋子は敬一郎から離れない決断をした。洋子は、自分が納得できるまでは離れないつもりでいた。しかし、やがて二人を引き離すときがやってきたのである。その最後の場が、正暦寺であった。



どれほどの時が過ぎたのだろうか、雨足はやや弱まりはじめていた。

「敬ちゃん、ごめんね。私泣いてばっかりやわ」 真っ赤な眼をして洋子が敬一郎を見た。

「ううん、ええよ。泣きたいだけ泣いたらええねん。出すもんを出してしもたらええねん」

「うん、ありがとう・・・・、ありがとうね・・・」そう言って、また顔を埋めた。

このまま時間が止まれば、このままずっと二人で居られるのに・・・、若い頃にはよくそんなことを考えていたが、この歳になってそのようなことを口にすることは躊躇いつつも、洋子を抱きしめる腕に力が入る。離したくないという気持ちと、これではいけないという気持ちがピンポンのように交錯していた。

「なあ、洋子、大宇陀行こうか?」 敬一郎が明るい声で言った。

「大宇陀・・・。大宇陀行くの?」 まるで赤ちゃんのように聞いた。

「うん、大宇陀回ろうや。覚えてるやろ、きみつつみ・・・」

「きみつつみ・・・。懐かしいわあ・・・」 涙で崩れた顔を隠しながら呟いた。

「今でも時々、買いに行ってるんやで。食べたいやろ?」 敬一郎は努めて明るく振舞った。

「町並みも変わってないのかなあ。見てみたい・・・」 洋子にうっすらと笑顔が戻った。

ホイットニー・ヒューストン「The Greatest Love of All」
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