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命を懸けた”一歩前へ!”

社長さまのおじいさまは大正二年生まれ、大東亜戦争では軍隊のご経験がございました。終戦後、生まれた松原にお帰りになられ、アサダ自動車の前身でございます自転車の販売修理のお店をお開きになられ、その後はバイク、自動車へと時流を上手くお掴みになられましたがゆえに、社長さまも今このように(株)アサダ自動車商会として生業をお継ぎになられているのでございます。

おじいさまはご生前に、軍隊時代のお話などを社長さまになさっておられたとのことでございます。その中で、大変お心に残っておいでのお話がおありのようでございます。

大東亜戦争の戦況もますます悪化の一途を辿ることになり、いよいよ本土決戦に備えての精鋭部隊を編成すべき時期にさしかかったのだそうでございます。社長さまのご記憶では、その部隊は「橘隊」というお名前だったとのことでございます。

上官が「我が国もいよいよ本土決戦を覚悟すべき時がやってきた。祖国防衛のために精鋭部隊を結成する。よって、その部隊は、当然のこと玉砕を覚悟しなければならない。つまり命はないものと思えと言うことである。我はと思う者は一歩前へ出よ!」と仰ったそうでございます。

社長さまのおじいさまはその時「どうせ遅かれ早かれ死ぬんや。えい!」と一歩前に出られたのでございます。この命を顧みない一歩の前進が、結果的におじいさまが生きて終戦をお迎えになることが出来た”一歩”でございました。

玉砕覚悟の精鋭部隊への入隊を逡巡なさった多くのご戦友は、その後、外地に向かう部隊に編入され、船舶での輸送中に太平洋上にて散華されることとなったそうでございます。おじいさまのご同級も多くお亡くなりになられたとのことでございます。その親御さまからは「なんでウチの子も誘たってくれへんかったんや」と責められたこともおありのようでございました。

運命とは過酷なものでございます。死を覚悟したものは死を逃れ、死を嫌ったものは死に取り込まれてしまったということなのでございましょうか。

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こんばんは

こういうお話を時折耳にいたしますが・・・運命というものはこういうものなのでしょうか。
もうどうなってもいいやと、覚悟をして志願した人が生き延びる。
不思議な運命の糸車の廻りがそこにあるのでしょうね・・・しかしもし社長様のおじいさまがその時一歩前に出られなかったら社長様はいらっしゃらないわけで、その辺も含め人の定めとか命の不思議を痛感します。
生も死も、薄い紙の裏表なのでしょうね・・・

見張り員さま

特攻隊員のお話が大和民族の精神性の崇高さをあらわす指標のように語られることが多々あるようではございますが、散華なさらなくとも、社長さまのおじいさまのように”一度は死ぬもんだ”というお気持ちをお持ちになられた方々も多くおられたことでございましょう。

死を覚悟した強さ、その強さが、あの焼野原となった日本を、現在のような経済大国に押し上げていただいたのだと、わたくしめは心より感謝いたしております。

大正生まれの方々が大東亜戦争を戦い抜かれ、戦後の復興にご尽力いただいたのでございますね。

その大正生まれをお育てになられた方々は、明治の気骨に溢れる先人であったのでございましょう。大切なお子さま方を戦争にとられても強く生きた明治の親御さまや、愛するご主人を亡くされた大正の女性方には、頭が下がる思いでございます。

うちのじいちゃん

こんばんは、お疲れ様です!!
社長様のおじい様のお話、運命とは本当にどうなるか分からないものですね。見張り員さんがおっしゃられたように、コインの表か裏で決められるような本人の意思とは逆の結果になってしまうんですね。
うちのじいちゃんは明治44年生まれでした。小さかった自分によく戦争時のことを話してくれました。じいちゃんの話は、戦争の悲惨さとは無縁で、いかに軍隊の中で楽をして過ごしたかの話が多かったです。 運のいい人で、ソ連が攻めてくる前まで軍の病院に入院(仮病で)していましたが、ソ連が満州に攻め入る前に自ら退院して、本土決戦のための部隊に編入され、終戦は九州で迎えたみたいです。 本当に運が良かったんだと今思います。
軍隊生活では、満州は実に寒い所でマイナス40度になる日もあり、普通に顔を出していると鼻や耳が凍傷になって自然に落ちてしまう話や、馬に乗ることに苦労したと言ってました。上官たちはサラブレッドみたいないい馬だけど、自分たちは言うことを全く聞かない荒馬だったみたいです。じいちゃんは炊事班でした。軍隊生活ではまともな食事がなかったため、若い兵隊が夜中に食料を盗みに来るので、そいつらを調理用の大きなしゃもじでどついた話も聞きました。その時のじいちゃんの気持ちまでは聞けませんでしたが、当時の軍隊では仕方がなかったのでしょう。
終戦で九州から汽車で大阪に帰ってくるとき、焼け野原の広島を見たそうです。 帰宅後は小さかった母がじいちゃんの傍になかなか近寄らなかったと聞きました。軍隊生活で顔が恐ろしくなっていたのでしょう。自分たちには話さなかったですが、仲間で亡くなった人たちもたくさんいたと思います。
 終戦で焼け野原で何もない状態から、生き残った人たちは死んでいった同胞の想いを受け継ぎ、恥じることのない日本を立て直すことだったんでしょうね。しかし、戦後生まれの自分たちはどうでしょうか? 本当に恥ずかしくない生き方、社会にしているか?と言われたら疑問ですね。
長文になりました。お許しください!!

whiteserenaさま

おじいさまのたのしいお話をいただき、ありがとうございます。

戦争時代のお話となりますと、多くは反戦ものになるのでございましょうが、時には痛快なお話もお聞きいたしとうございますね。

このようなお話をどこかに残しておかなければなりません。わたくしめのブログが、何かのお役にたつのならば幸いでございます。

これからも思いのたけをお綴りくださいませ。
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